きちんと貫く


昭和五十四年二月二十三日 朝の御理解

御理解 第七十六節 「人間は人を助けることが出来るのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることはできぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ」

 本当に自分が助けてもらえば同病相憐れむで私はこういう薬を飲んで助かったと、またこういう神様を信心して助からんところを助けて頂いたと。これは誰でもそういう気になると思うんですよね。

 今朝から私はお夢を頂いたんですけれども「日本全県の人達が合楽に御縁を頂いて、その体験発表をしておる」と言うのです。東北あたりの方達は東北色豊かな、南の方では沖縄ですね、琉球あたりの方達が琉球色それこそ豊かな何かショーか何かのような感じである。そして合楽に御縁を頂いてお取次を頂いて、こういう教えを頂いてこういうおかげを頂いたという、もう簡単にそれを日本全国の各県から代表が集まってるんですけどね、助かったという事を発表しているその雰囲気のすばらしい事、有難い事。
 そしてその夢を頂いているんですけども、どういう教えを頂いてどういうおかげを頂いたという事を話しておるんですけども、私はそれが終わった時には忘れてしまって、今日のお夢は日本全土にわたって合楽の御比礼が輝きわたる、いわば合楽の信心によって助かる人が出来る。そして私が思っている事は、成程信心と言うのは、助かると言うことは、簡単な事で簡単に助けて頂くんだ、そんなにひちめんどう難しう言わんでもいい。
 簡単に助かれば言うならばその信心が程度が低いといったような考え方ね。
 例えば合楽理念なんかを説きますと、言わば簡単になるね。教えのすべてという事になれば大した事でしょうけれども、大変難しい事をいろいろ、例えば仏教の教典の研究とか、キリスト教のバイブルなんかを頂いておかげを受けていくと言う。

 あれを覚えなきゃならん、これを体得しなければならない、でなかったら一かどの信者ではないというようなものでなくて、合楽の場合にはもう本当に簡単明瞭な教えを頂いて、それを実験して実証しておるという発表ばかりだったという事が非常に印象的だったんです。私は本当に思うですね、どんなに長々しいお説教頂いても頂きどころはそんなにね、何かそこにピシッ と頂いたものがあって、それを あっ、そうだと思って行じたら、昨日の御理解の中にもお話し申しておりますように、鞍手の御信者さんじゃないですけれども、他の話は耳に入らなかったけれども、只「黙って治める」という事だけが不思議に自分の頭に響いてきた、心の中にそれを感じた。それで本気でその事にならせて頂いたらね、もうどうにも出来ないはずの問題がだんだん解決して来たし、自分の外の方にまでそのおかげが及んでおるという話をさせて頂いた。

 私、昨日研修の時に皆の発表を聞かせて頂いて、素晴らしい発表をしておりましたが、中に簡単に 中村 徹美先生 が発表しておりますのを聞いて、あっ今日の発表はこれがいい、「これば塗板に書け」と言って、おそらく今塗板に書いているのが徹美先生が発表した簡単な、まあ昨日の御理解をまとめたものです。ご覧になったでしょうか。
 どこが私の心を引いたかと言うとね、「黙って治めるという事は、そのまま心を神様に向けることだ」と言ってるんです。私はこれを聞いて驚きましたね。
 もうここに言わずにはおれない、これはもう辛抱の、言うなら限界だと言うような時でも一心にね、言うなら「普通の辛抱と信心辛抱の違い」はここなんですねえ。それこそ「生神金光大神、親先生を唱えなければ辛抱が出来ない」それが神様に通うんだと言うのです。だから貫かねばいけないことがわかりますね。はあ今日もまた失敗した ね。
 だからこの日参なんかというようなもの、ここでは日参的教聴と言うふうに言われますけども、これを貫いたら素晴らしいでしょうね。合楽の信心を基にして、朝参りが貫かれたらね。それを何かの調子に一寸欠けたら、もう欠けたところからおかげが漏ると仮定しなければなりません。貫くという事は、もう一分でも切れたら切れたんですね。だからそこを、例えば朝参りが出来なかったから、もうせめて昼でも参ろうか、夜でも参ろうかといったようなね、何かそういう工夫がいるのです。

 昨日 私、研修の時に、私の信心で大した事はないけれども、これだけは先生の独壇場だろう、ここだけはやっぱり先生の真似は出来んといったものが何かあると思うんだけども、皆何か感じないかと、私が話したね。昔からずうっといろいろに私の信心体験を、いわば折り込んで聞いて頂くのですから、あの時はあ々いう事じゃった、あん時にはあ々いう事じゃったといったような話がたくさん残っている。それを例えば「貫く」という事なんだ、私の場合は。例えばお商売をしておる時に、それこそ九州各県に出張販売を、戦後のあの混乱時代にね、筑後のセッケンとかローソクといったようなものを販売に回りましたことがございます。もうどこへ行っても私が宿に着いてもまず教会の所在を聞くんです、所在を。「金光教の教会はこの辺のどこにありますか」と。ところが北九州の黒崎か何か泊まった時に、その女中さんが知らんのです。まあおかげ頂だきゃいいと思って、朝やっぱり五時に、どこでも五時の御祈念だろうと思うとりますから、それに早目に起きていきました。勿論電車も通っていないし人通りもない。ところが一人のおばあさんが急いで道を歩きよんなさるから聞きました。「黒崎の教会はどこにありますか」と。「はあ私が今、朝参りをしよるところじゃけん一緒に行きましょう」といったようなおかげを頂いてきた。
 だからね、はあ神様じゃ間違いないなあと言ったようなものが貫くところからしか生まれてこんです。もう今日は神様が旅先だからね、またとうとう分からなかったからこれも御都合じゃろうといったようなものではなくて、そういうものがね、私のお話を聞いて下さると、いたるところに出てくるでしょう。
 私 今日の御理解を頂いてですね、そういう一心を心に立てておくとですね、それを貫こうとする時には、生神金光大神ですからね、やっぱり。貫こうと思っても貫けないことがあるんですね。そこんところに唱える「生神金光大神様」こそ神様に通う。神に一心とはそういう事なんだ。だからいよいよここが神様に通うところだと言うところをです、おろそかにするものだから、やはり切れ切れになっておかげもまた切れ切れになって、いやそこからおかげが漏ってという事にまでなってくるんですね。

 私は 助かるというなら、只病気が治った、災難がよけられたと、今日ここにもあるようにね、病気災難の時に神に助けてもらうのであるからとこう言われるけれども、病気災難の時に助けてもらったと言うだけではなくて、私共の生活全般にわたってね、人間の幸せの全般にわたって、経済の面でも健康の面でも人間関係の面でも、難儀という難儀のあらゆるその難儀から救われる、言うなら手立てを私共が身につけてそしてどういう難儀な人にでも、それが臨機応変に伝えられるようなおかげを頂いたら、これはやっぱりお徳をうけるでしょうねぇ。
 本当に分かりきったことのようだけれども、そういう表現を聞いてからピシッ とこう何か感じるものがあるでしょうがね。修行生皆それを書いてます。
 昨日の御理解、ですから「黙って治める」というのは、心を神様に向けることだからおかげになるのです。だからここは辛抱がでけんという時ほど心を一心に向けますからね、神様に通ずるという事がわかるでしょう ね。

 神様が合楽にかけられる祈りとか願いとか言うものは、例えばね、今日私が頂いたのは、日本全県という事でしたけれども、事実北海道、または沖縄にやはり御信者さんがおりますね。本当に日本全土におる感じですけれども、その人達がもっともっとリアールなと言うかもっともっと合楽と密接な関係を持つことになって、合楽理念をもってそれこそ素晴らしい助かりを見せて下さるようになればですね、これがまたそのまま全世界にも広がっていくといったようなおかげになる。その素晴らしいおかげを見せていくということがね言うなら合楽理念によるという事でも、合楽理念でもこの一言だけは貫いておるというものが段々出来てきたらね、今度はまたその次の信心に、または、また別の信心にというふうに信心を進めて行く事が楽しくなってくるね。
 「黙って治める」という事だけでもね、それを正しく貫かなければ神様には通じない、神様に通じるからそれこそ、昨日の皆さんの発表を聞かせて頂いておってです、お夢の中で、もうその教えの素晴らしい事。それを簡単明瞭に私共がここで一つ分からなければならん事はね、合楽理念とは簡単、それが人間の助かりのすべて、合楽理念は助かりの理念だと。病気だけじゃない、人間関係だけじゃない、経済関係だけの事じゃない、人間の幸せの条件のすべてが足ろうていく事の為の、しかも簡単明瞭に合楽理念をもって頂くということは、それを行じぬいていくならばです、神様に通うという。

 私は今日は、ここんところを本当に一つ頂いてもらいたいと思うね。もう出けん、もう辛抱が出けん、という時を「生神金光大神様」を唱えて下さい。その生神金光大神様なら必ず通ずるです。通ずるからその次には実証となって表れてくるんです、証を立てていく事が出来るんです。それももう鮮やかなおかげでありね、先日から頂くように、成程神様じゃなあ、成程合楽じゃなあと言うようなおかげをね、それこそ穂に穂が咲いてと言うようなおかげを頂かせてもろうて、そしてそれを人に伝えて行くでなからなければ、言うなら聞く者も半信半疑ではいけません。本当ですね、あんたが言う通りですね、あんたが本当におかげを受けとられるですね、と言うおかげをふんまえての人を助けるでなからなきゃならない。それには、今塗板に掲示してあります、土の「黙って治める」という事はね、そのまま神様へ通ずる。神様を唱えての辛抱であり、黙って治めるであるから、これならば神様に通わないはずはないと ね。

 神様に通わない、言うならば神様との一つのおかげのルートというものがそこに開かれるわけ、それが小さい道ではなくてあの教えもマスターした、この教えも行じておるという事になってくる時にです、大きな天地につながるおかげの道が開けてくるわけね、そういう助かりを頂いて人に伝えていく、それこそ、そのおかげをです、そういう「助かる」または「助ける事をありがたい」とお互い心得て信心せよ、とありますですね。

                     「どうぞ」